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沖縄戦の集合的記憶 保坂廣志

沖縄戦の集合的記憶-戦争日記と霊界口伝-

 保坂廣志 著 A5版 368ページ
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  印刷版(POD)   2,800円+税   アマゾン 

  ISBN:9784907625597(ダウンロード)、9784907625382(POD)
  2017年10月1日刊

集合的記憶

 誰も戦争を知らない時代が到来する。フランスの社会学者アルブヴァックスは、自分が経験しなくとも『集合的記憶』で過去を知ることが出来るという。時間が経過してもなお、戦争日記や手紙は人びとの目を捉えて離さない。沖縄土俗のシャ-マンは、死者を自身の肉体に憑依させ、死者の言葉で戦争を語る。さらに、戦争にまつわる幽霊は、社会的生命を宿したユ-レなのである。戦争日記や手紙、シャ-マンの祈り等にこめられた人々の感情をくみ取り、それを戦争記憶に焼き付けたのが本書である。ここから、沖縄戦は地べたや天界、海域からまなざす壮絶な戦いであったことが理解されるだろう。
 本書の公刊後、新たに沖縄戦日記を通時間的に紹介する『沖縄戦日記』を出版する予定である。二冊の本を通じて、戦争を記憶化する意味が表出されるだろう。

序文

沖縄に住んでいると、会話の端端に「あの沖縄戦ではね」と形容される戦争談義が聞かれる。沖縄戦から 70 年以上が経過してもなお人びとは、過去の戦争に寄り添い、現在へとつながる重い記憶をたどっている。戦争とそれに続く米軍支配、そして 1972 年の日本復帰と過重な歴史が陸続し、記憶の内や外に滞留し覆い被さっているみたいだ。

そもそも、話の節々に戦争をかぶせるぐらい悲しいことはない。戦争トラウマが沈潜しているかのように、言葉の先に戦争がうずくまっている。戦争の心の傷については、長年にわたり研究を続けて来た。しかし、これもある時点を境に胸中の論議が途絶えてしまった。それは、トラウマ罹患者の心の中を伺えば伺うほど、戦争トラウマの着地点をどこに置いたらよいのか窮したからだ。トラウマの元凶を発見しても、そこは辺り一面目を覆うトラウマの世界である。沼沢に入り込み、出口が見つからずもがき続けているのが実のところの私である。

そんな折りの戦後 70 年の節目の時、米軍ヒストリアン(戦記作家)で、米第 10 軍参謀部付き情報将校であったスチ-ブンス少佐とバ-ンズ曹長が残した「 Okinawa Diary(沖縄戦日記)」に出会った。私文書として綴られた戦場日記には、米最高司令部内の沖縄戦のやり取りや機密事項が200 頁以上にも亘って記録されている。また、戦場をさまよう民間人多数にも触れるなど、傑出した日記である。ところが、沖縄戦終了が宣告された翌日の 1945 年 6 月 21 日、スチ-ブンス少佐は、「もう(戦争を)十分見た。もう沢山だ」と記し、日記は中止になってしまう。戦後バ-ンズ曹長は、夢で戦争を再現し日々苦しんだと元妻は NHK のテレビ・インタビュ-で答えている。一方、スチ-ブンス少佐は、沖縄戦終了後本国に帰還し、米軍青史としてつとに知られる『日米最後の戦闘:沖縄戦』の実質的責任者となり大著を刊行した。しかしその後、二度と沖縄戦に触れることはなかった。 2 人の沖縄戦は、銃取る兵士同様に、苦しくもつらいものだったのだろう。およそ戦争の語りは、死者の来歴につながることであり、語らぬことが唯一の自己保身だったのかも知れない。

社会学を志す私の沖縄戦研究は、ある意味で方法論も含め軌道修正が必要な時期に差しかかっていた。そのさ中、ドイツ占領下のフランスでゲシュタポに捕らえられ、ドイツ国内のホロコ-スト(終末)収容所に移送され、そこで病死したフランスの社会学者モ-リス・アルブヴァックスが残した『集合的記憶』に接した。彼の説で特異なことは、自分が経験しないことでも過去を共有できるという『集合的記憶』論にある。仮に学説が正しいとするならば、従来懸念されてきた戦争記憶-「戦争体験者がいなくなれば誰もわからなくなる」、「経験した人でないと戦争はわからない」等の重い生還者(サバイバ-)課題も再検討してよいことになる。

アルブヴァックスの論理的仮説を援用し、改めて沖縄戦を考察すると、今まで過去の検証だけとしてあった多くの事柄が新たな意味をもって浮かび上がってきた。その代表が、戦争体験に寄せる関係者の心情であり、県内各地に祀られた戦争記念塔碑に関わる記憶である。ある証言や慰霊碑は、戦争を讃え、ある証言や慰霊碑は、言葉少なくそこに佇んでいる。過去への追想が、今のわれわれに「集合的記憶」として重くのしかかってくる。

そして、戦場日記・手紙へとたどり着いた。従来研究者にとり、戦争日記や手紙は歴史の空白を埋めることはあっても、それが戦争記録の首座に収ることはほとんどなかった。しかし、集合的記憶という観点からこれらを眺めると、多くの記録がむき出しのまま戦場に遺棄されていることがわかる。戦時下のエピソ-ド記憶がいたるところに塗り込められている日記や手紙だが、個人の手になる記録の故か誰も評価を下さず、ただただ貴重な記録として扱われているだけだ。

しかし、時間や地域、書き手は異なるが、戦場地もふくめ日記作者(記録者)は、戦争に思いを致し、そこでの人間模様や出来を紙の記憶に書き留めたことは間違いない。時間が経過してもなお、日記や手紙は空間的な枠の中でしっかりと人びとの目を捉えて離さない。戦争期の日記や手紙は、戦場に寄せる書き手の主体を表し、自分がどこにいるのかその関係性を能弁に語るものでもある。戦争のその一点を捉え、眼差すことにより、戦時下の日記や手紙は、集合的記憶をまざまざと蘇えさせるものとなる。

さらに、本書には戦禍がもたらす「霊界口伝」を含めた。戦後、多くの者が家族の戦死日や死没地を求め、ユタと呼ばれる沖縄土俗のシャ-マンを訪ねた。ユタは、死者を自身の肉体に憑依させ、死者自身の言葉で死に場所や死出の状況を語るが、その手法は多種多様である。そして決まって最後には、死者の口添えを借用し宣託を下すといわれる。これがユタのハンジ(判示)と言われ、荘厳な死者儀礼のクライマックスである。

土俗と伝統に培われた沖縄シャ-マニズムの戦争談義は、想像以上に奥深いものがある。なによりも生存者は、ユタの判示を手がかりに戦場参加者を行方不明者ではなく特定の「死者」として迎え入れるからである。ユタ判示を受け入れる家族、もしくは生存者がそう判断した場合、戦死者の言葉は事実として魂入れされ、霊前の「集合的記憶」として降り注ぐものである。ユタを媒介とする死者の言葉が果たして記憶たりえるか否かは、その他の死者儀礼や顕彰をいかに考えるかと通底するものがあろう。祈りの先に死者を想像した時、すべからく人はシャ-マンたり得るだろう。

さらに私は、敢えて挑戦的(試論的)に沖縄でユ-リと呼ばれる戦争幽霊談も本分析の中に加えることとした。これは、ある種戦場から戦後へとつながるオ-ラル・コミュニケ-ションの継承とも見なされるべきものである。口伝であるがゆえに、科学的とか社会科学的という範疇には入らないものである。ただし、ユ-リの伝承談は、生存者が死者に語りかけ、慰霊を行うさいの文化的水脈と相通じる場合があるのは興味あることである。この世から死者に語りかければ、正なる評価を与えられるが、死者が生者に語りかければ文化的に非成立という考えは、やや傲慢かもしれない。ユ-リ談も、突き詰めれば生存者の語りの一部を形成するもので、伝説が浮遊する怪談、空想談、都市伝説とは異なるものであろう。戦争にまつろう幽霊談義は、社会的紐帯を表すもので、戦没したユ-リは、社会的生命を宿したユ-リなのである。そこで私は、「集合的記憶」の視点から敢えて沖縄戦に関わるユ-リを取り扱うことにした。

後は、過去を見据え、忘れられた日記や個人が秘匿する手紙、ユタ判示、ユ-リ談等を拾い集め、そこから集合的記憶をいかに掬い上げるかが課題となろう。こうした問題意識から生まれたのが、本書である。沖縄戦の中に日記や手紙、霊界口伝を採用する大胆な試みは未だ確立されていない分野であるが、私個人としては戦場のスクロ-ルよろしくこれらを書き込む事を決めた。この場合の戦場のスクロ-ルとは、戦場が天界・地べた・海域、上下左右に変化して、渦巻く様を表現するもので、一つに収まらない記憶のたぐいを表すぐらいの意味である。改めて戦争当時の日記や手紙、各種の霊界論議を手に取り、集合的記憶論をもとに戦場の「焼き直し」を計ろうとしたものが本書である。

さて、現今の社会情勢から、近々日本に危機が迫っているとか「わじわじー(イライラ)する」などという言葉が聞かれる。しかし、過去すら上手く共有化できないことには次代への危機意識の分有は困難であろう。まだまだ、過去や歴史現場から立ち去ることは出来ないわけで、日々記憶と向き合い「集合的記憶」を組み立てる必要があろう。集合記憶は偏に個人に寄り添うものであり、誰はばかることなく私の記憶を共有の財産として分有したいものである。

もくじ

注記
第Ⅰ部 沖縄戦と集合的記憶
 第1章 沖縄戦の集合的記憶の構成
  第1節 問題の設定
  第2節 目的
  第3節 構成
 第2章 モーリス・アルブヴァックスと「集合的記憶」
  第1節 記憶の集積–個人的記憶から集合的記憶へ
  第2節 「記憶の共有化」の獲得
  第3節 記憶の共有 –「時間」枠と「空間」枠
  第4節 戦争の記憶 – 集合的記憶の表象
  第5節 記憶の焼き直しと再記憶化
  まとめ
 第3章 戦時下日記の意味と特色
  はじめに
  第1節 日記とは何か
  第2節 兵士の日記行為
  第3節 兵士と日誌の携帯
  第4節 米軍情報部と日本兵日誌
 第4章 沖縄戦と日記
  はじめに
  第1節 日本軍関係日誌
  第2節 米軍関係日記
  第3節 民間人(沖縄本島)日記
  第4節 民間人(沖縄離島)日記
  第5節 女性と疎開日記
  第6節 海外県人関係日記
  第6章 沖縄戦と手紙
  はじめに
  第1節 米軍関係者の手紙
  第2節 戦時下の郵便検閲制度
  第3節 日本軍兵士の手紙
  第4節 民間人の手紙
 第6章 沖縄捕虜新聞、文芸誌
  第1節 戦時下の新聞と文芸
  第2節 沖縄捕虜新聞―『沖縄新聞』
  第3節 沖縄戦捕虜と文芸誌
  まとめ
第Ⅱ部 沖縄シャーマンと霊界口伝
 第1章 沖縄シャーマンと戦死者の判示
  はじめに
  第1節 超自然的存在としての沖縄シャーマン
  第2節 ユタの弾圧とその復活
  第3節 シャーマンの社会的存在意義
  第4節 ユタと戦死者の語り
  第5節 憑依霊
  まとめ
 第2章 沖縄の戦争ユーリ
  はじめに
  第1節 兵士のユーリ
  第2節 男子学徒・女学生のユーリ
  第3節 民間人ユーリ
  まとめ
  あとがき
  脚 注
  付表 沖縄戦関連日記・日誌
   参考文献
  索引
   事 項
   人 名

著者紹介

 保 坂 廣 志(ほさか ひろし)}
   1949年 北海道生まれ
   1974年 東洋大学社会学部応用社会学科卒業
   1976年 東洋大学大学院社会学修士課程修了
   琉球大学法文学部講師、助教授、教授を歴任
   現在、沖縄戦関係を中心とした翻訳業に従事
   著書 戦争動員とジャ-ナリズム(1991、ひるぎ社)
      争点・沖縄戦の記憶(2002、社会評論社、共著)
      日本軍の暗号作戦 (2012、紫峰出版)
      陸軍 暗号教範(2013、紫峰出版、共編)
      新教程 日本陸軍暗号(2013年、紫峰出版、共訳)
      沖縄戦下の日米インテリジェンス(2013年、紫峰出版)
      沖縄戦のトラウマ(2014 年、紫峰出版)
      沖縄戦捕虜の証言(2015 年、紫峰出版)
      沖縄戦と海のモルフェー(2016 年、紫峰出版)
      沖縄戦将兵のこころ(2016 年、紫峰出版)

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